あがいてぃーだてるま

金武湾と、海中道路、伊計宮城、平安座、浜比嘉、太陽を 仰ぎ見る集落

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自治会慰霊祭

11月3日
自治会慰霊祭が自治会主催でおこなわれました

多くの型の参加をいただきました

黙とうを参加者で

自治会長の説教がおこなわれました
日程の設定は慰霊碑の完成をもってやったとのこと(諸説あり)

自治会敬老会

10月27日 自治会敬老会が開催
まず自治会長の開会の挨拶から始まり、つずいて老人会長の乾杯の音頭
宴は4:00から6:00まであり、自治会から当事者へお祝い金も贈呈も行われました

 又、舞台では当事者のお名前などが紹介

手作りお弁当のお品書きと合わせて!

紹介しきれないくらいの踊り、空手の演武。
敬老者 の皆さんには楽しんでおられました。


最後にはカチャーシーで2時間のひと時があっという間でした


御礼
お弁当を何日も前から仕込んでいただいた皆さん
迫力満点の空手演武の方々、琉舞を披露していただきました方々
多くの方々の寄付もございました。会場(舞台のそで)を華やかにしていただいたお花きれいでした。
紹介しきれてない方もあるかもしれませんが、ありがとうございました

来年もこの皆さんが集まれるように、健康にご自愛ください、ごきげんよう。自治会長談

敬老会準備

17日午後からの準備
舞台正面にお祝い該当者
カジマヤーやトーカチのお名前が用意準備が進んでいます。

防災運動会






8月18日防災運動会 開催  多くの区民の参加をいただきました
競技説明の後 水風船を使った消化訓練、毛布でタンカを作っての移動訓練などがおこなわれ、4個の訓練を消化
又、カレーの炊き出しで終了  スタッフの皆さんご苦労様、ありがとうございました。

8月11日の記事

照間区防災運動会が8月18日に行われます
安全に行われるように 草刈りを行いました。



作業 指示が行われた

令和 総会


令和元年総会が多くの区民の参加のもとほぼ時間どうり始まり、
一部自治会長からの提言もあり、スムースに終了

審議委員長の田場氏より開会の挨拶

参加者審議中、真剣な時間

緊張から解きほぐされた懇親会

開場を準備、何かと手伝っていただいた方々にはありがとうございました
おかげさまで無事総会終了をいたしました。
感謝

炭焼長者
兼城 賢休(明治44年3月5日生)照間

 山原のある山の中に、長男、次男、三男までいて、三男は、「シムぬヘーバー」といいよったって。シムといったら、いつもよごれてほこりまみれでしょう。だから、この三男も木炭焼ちゃーで、ほこりまみれだから、「ヘーバー、ヘーバー」と呼ばれていたって。
女兄弟はいたかどうかは知らないが、親があまりにも貧乏者だから、「とぉ、私はもうおまえたちに家を分けてあげる力もないが、お前たちはめいめいどんな希望があるか」
と聞いたら、長男は親と仲がいいので、「親のそばにいます」と。次男にも「おまえはどうするか」と聞くと。「私は町方へ出て商売をします」と。それから三男は、「私は今の仕事が好きですから、そのまま炭焼をしますよ」
と言って、山に残った。三男は、生活の足しになれば、畑を作ることにして、山から石を集めて、ヤマシシが超えることができないよう石を積んで柵を作った。
そうしていたら、ウスガナシーメーが田舎を回られたときに、ちょうどこの炭焼きのところまで回り回ってきたわけさ。ウスガナシーメーが見たら、「とぉ、これは、畑にまんまるく積んであるのはみんな金じゃないか」と言ってね。あとは三男はたいへんな金持ちになったって。この話をきいたわけさ。


(昭和61年11月25日聴取)
「よなぐすくの民話」与那城村教育委員会 発行より

御茶当(ウチャトー)と煙草の始まり
兼城 太勇(明治45年4月15日生) 照間

 昔むかし、上与那原(イーユナバル)には上与那原子(イーユナバルシー)という人がいて、下与那原(シチャユナバル)には下与那原子(シチャユナバルシー)という人がいた。二人は闘牛場にいっしょに行ったり、いつもどこに何かあるからいっしょに行こうといって、ひじょうに仲がよかったそうです。
 ある日、二人はイザイに出たが、海に行ったら、まだ潮が引いたなかった。少しはやいもんだから、浜辺で話をしているときに、上与那原子が下与那原子に言った。
「私たち二人はこんなに仲がいいから、あなたに男の子ができても女の子ができても、私に男の子ができても女の子ができてもいいから、互の子どもたちを結婚させよう」と。
そしたら、下与那原子は、
「私たちはこんなに仲がいいが、もしもその結婚がうまくいっても、そのあとに破産したら、私たちの友情も破産するんじゃないか」
「いや、別に破産することはないさ」と、
二人でそんな話をしていたって。
 それから、二人は、ねむけがさして寝てしまた。そしたら、下与那原子は、遠い山から火の玉が来る夢をみた。その火の玉が、下与那原子の上に来たらなくなったって。下与那原子は、「これはおかしいなぁ、火の玉が来たんだが」といって目を覚ましてしまった。
海を見たら潮が引いていて、イザイをするのにちょうどよかったから、イザイをして帰っていったって。また、上与那原子は、
「下与那原子には女の子が生まれて、上与那原子には男の子が生まれる。下与那原子の女の子は、米の倉を建てて、生涯裕福に暮らせるチヂスー(先祖と同じような運命)を受けて生まれるが、上与那原子の男の子は、ミーバーラー(目の粗いカゴ)を作って生活しなさいというチヂスーである」
という夢をみた。上与那原子は、「これは悪い夢をみたなぁ」といって、一言も話さなかったそうだ。
 それから数年後、上与那原子、下与那原子二人の妻が妊娠した。上与那原子には男の子、
下与那原子には女の子が生まれたって。
 それから年数もたって、子どもたちが十七、八になったときに、以前の約束あったので、
上与那原子と下与那原子の子どもたちは結婚することになった。二人が結婚したら、その家はたいへん金持ちになった。
 それから何十年後、ますます金持ちになったその家では、日雇い人夫も四、五人使うほどにまでなった。ある日、夫が妻に言った。
「今日の使用人たちには、新米(ミーメー)を炊いて食べさせなさいよ」と。妻は、
「はい」
と答えた。それから、夫は二、三日用事があるといって、出かけた行った。夫が出かけてあとで、妻は不安になった。
「自分たちの米倉には、米はたくさんあるけど、この米は去年刈り取った米だから、これを炊いて新米とはいえない。これはどうしたらいいかねぇ」
とたいへん心配したそうです。
 心配した妻が、自分の家の田んぼを回ってみたら、稲の穂がまだ青くして先だけうれていた。妻は、自分で刈り取ろうと思ったんだけれど、どうしても刈り取ることができな。それで、使用人たちを連れていって刈らせて、新米を炊いてあげたそうです。
 それから夫が帰ってきて、「私たちの稲はどれぐらい実ったかなぁ」といって、田んぼを回ってみたら、稲が刈り取らてている。「あぁ、これは泥棒にあったんだなぁ」と思って、家にかえってきてみれば、庭に刈り取った稲があった。
「だれがこの稲を刈りなさいと言ったか」
と聞いたら、妻は、
「あなたが言いました」と。
「私は稲を刈りなさいと行ったのか」
「そうではないんですけど、あなたが、『 今日の使用人たちには新米を炊いて食べさせなさいよ 』と言いました。でも、米倉にある米は去年のこめで、それを炊いてあげても新米にはなりません。それで私は、自分たちの田んぼに使用人たちを連れていって、稲を刈り取らせて、新米を炊いてあげました」
と言ったら、夫は、
「このぐらいのこともわからん女が、私の家で勤まるか。おまえは離縁だ」
と言ったそうです。それから、その家はたいへん金持ちだったので、
「おまえには、小判九斤分けてやるから」
と言われて、妻はなくなく離縁されて、家を出ていった。
家を出された女は、小判九斤を持ってヤンバルに下っていった。
「だれが一番、私の夫としてふさわしいのかねぇ」
と思って、あちらこちらヤンバル中回てみたら、あるところに炭焼きのおじいさんがいたそうです。女は、この人は確かに私の夫になる人だと思って、自分から、
「私を嫁にしてください」
と言ったら、おじいさんは、
「冗談をいいなさるな、あなたのような方が私みたいな炭焼きの妻になるのか」
「はい、なります。生涯食べていけるだけの宝物を持っておりますから、ぜひ私をあなたの妻にしてください」
女がそう言うので、おじいさんは、
「あなたは何を持っているのか」
と聞いた、女が小判を持っているというので、おじいさんは、
「私は小判というのは、話には聞いたことがあるが、見たことがないから見せてくれんか」
と言った。女がさしだした小判を見て、おじいさんはびっくりして言った。
「あなたは冗談が好きだねぇ。これはクルマーイサー(黒石)じゃないか」と。女は、
「この炭焼きのおじいさんは、とても徳のある人だと思うんだけど、違うのかねぇ。この人にはあまり徳はないのかねぇ」
と思ったけど、まずはということで、おじいさんに言ってみた。
「私にあなたの炭焼き小屋を見せてくれませんか」と
「どうぞ見てください」
と言ったので、行ってみたら、その炭焼き場は半分ぐらい小判で造られていた。
女は、この人は確かに徳のある人だといって、おじいさんと結婚して、炭焼き小屋から小判と石とをより分けて、ひじょうに金持ちになったそうですよ。
 それから二十年ほどたち、女を追い出した元の夫である男はたいへん貧乏になっていた。
男は、毎日ミーバーラーを作って、それを売り歩いて生活していた。ある日、男は、女の家にもミーバーラーを売りにきた。そしたら、女の方では、これは私の元の夫であるとわかるんだけれども、男にはわからない。女は召使に、
「いつの日に、」いくつのミーバーラーが必要ですから、注文しなさい」
と言いつけた。
男が喜んで注文の品を持ってきたら、女は男を一番座敷に案内した。そして、男に言った。
「あなたは私がわかりますか」
「わからん」
「よく見てください」
だけど、男はいくら見てもわからないと答えた。そしたら、女には、昔から眉と眉との間にあざがあったので、
「これを見てください」
と言った。そのとき、男は、はっとして、自分が追い出した妻だと気づいた。男はそのまま庭に出て、舌を噛み切って死んだそうです。おんなは、
「どうしよう。でも、今の夫にこのことが知れたら悪いから」
といって、男を庭に埋めたそうです。
それからあと、女は、毎日、朝のお茶を、男を埋めたところに湯のみの一杯ずつかけた。おかしいなぁと思った今の夫であるおじさんが、いろいろ聞くけど、どうしても女は言わない。
「なぜ、あなたはこんなことをするのか」と聞いても、
「いえ、私は茶碗をゆすいでるんですよ。なんでもありませんよ」
と答えるだけだった。そのようにして、女がお茶をかけたのが沖縄のウチャトーの始まりです。
 そうしているうちに、その男を埋めたところから一本の木が生えてきた。女がその葉をちぎって口に入れたら、心が落ち着いた。それで、これは自分の慰めになるといって飲んだのが煙草の始まりです。
それでも、おじいさんは、女に、
「あなたが毎日、庭でそんことをしているので、私も夢見てしまって、どうしても寝つけないから、わけを話してくれんか」
と言ったので、とうとう女は元の夫のことをおじいさんに告げた。
「じつは、私はあなたと結婚する前にこういう人がいたんだけれども、こんなわけで、
離縁されました。あなたと結婚する前に小判九斤を持ってきたのは、その人からもらったものです」
と言った。わけを聞いたおじいさんは、
「しかし、屋敷内に人を葬るということはできないから、どうしてもこれは外にださなきゃいけない」
と言って、墓を造って葬った。それから、その家はますます栄えたそうです。また、屋敷内に人を葬らずに外に出すというのは、それからだそうです。


(昭和61年11月25日聴取)
「よなぐすくの民話」与那城村教育委員会 発行より

子育て幽霊
照屋 守繁(明治44年11月10日生) 照間


 妊娠した人が病気で死んでしまってよ。そのまま墓に葬ったんだろう。墓に葬ったら、墓の中で子どもが産まれてよ。産まれたんだが、お乳もやれないでしょう。
それで、死んだ母親は毎晩毎晩近くの店へ行って、その子のミルクとかお菓子とか買いに行ったってよ。店の人も、いつもこの女から金は取るのだが、翌日見たら、ただの紙切れになっていたというんだな。
幽霊になって、その日は店の人もお金に見えるんだが、翌日見ると、普通の紙切れだったという話を聞いたよ。


(昭和61年11月25日聴取)
「よなぐすくの民話」与那城村教育委員会 発行より

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